okiniiri
  スキ−の年表

1968年 18歳

高校の卒業を控えた3月、スキ−に行かない?と言う同級生の誘いに乗り、
八方尾根、2泊3日、往復バス、民宿、レッスン料込みの、格安バスツア−に申し込んだ。
初めてのスキ−3日間は衝撃的に面白く、東京に帰ってから、寝ては夢起きてはうつつのショック状態。
教えてくれたスキ−の先生が凄く誉め上手で、誉められて誉められて、木に登ったのかも?
1968年〜1969年 18歳から19歳

八方から帰ってスキー関係の本や雑誌 を片っ端から読みまくり、スキ−知識を増やし、頭でっかちになった。
当時の主流は、クルッケンハウザ−教授のオ−ストリア流、リバ−スアンギュレ−ション。全日本スキ−連盟SAJは、
これを教祖として、スキ−教程を発行、1級2級3級の検定制度を考案して、人々の承認欲求を満足させて大繁盛していた。
三浦雄一郎見谷昌禧 の二人は反体制派、SAJとは違う独創的なスキ−理論で、多くの雑誌に取り上げられ、著書も多数。
インタビュ−記事や著書での強烈な発言、ワイルドな個性に、感受性の強い年頃だった私は強く影響を受けた。
山もスキ−も得意な三浦雄一郎に教わってみたかったが、東北、北海道ベースでは、東京から通うのには、
交通不便で大変。オリンピック選手だった、見谷昌禧は、初スキーで行った八方で、見谷スキースクールを開いていた。
最寄の白馬駅までは、新宿から夜行で1本と、行きやすいので、12月から見谷スキースクールへ通う事にした。
スキースクールへ通い始めると、初心者なので練習する度に、出来なかった課題が出来る様になる、成長は快感!
革の手縫いオーダーブーツ
HATAスキ− SD3000、、、
通学が小田急線の向丘遊園だったので、月に1〜2回ペ−スで、延線上の渋沢から丹沢で沢登りをする様になって、
ガイドブックの、初心者コ−スから、中級向きコ−スへ徐序にレベルを上げて楽しんでいた。

1969年〜1970年 19歳〜20歳
ある日、丹沢、セドノ沢の高度感の有る滝の出口で、命の危険を感じて、もう一歩が踏み出せなかった。
水道橋の登山用品店チョゴリザに、学生服で入っていったら、徽章を見て、大学の先輩だと言うKさんに声をかけられ
滝の出口で踏み出せなかった話をしたら、山岳会に入ったらどうだ?と言われ、先輩の居る緑山岳会に入会した。
緑山岳会は、名前の印象とは裏腹に、岩と雪の先鋭的なクライミングを目指す山岳会で、
4月から毎週、会主催の、山や谷、スピ−ド登山と、クライミングの練習。
夏合宿は、重いキスリングを背負って北アルプス大縦走、11月は富士山中腹でビバ−ク耐寒訓練。
先輩達のレベルに追いつくため、一人では絶対に出来ない、体力の限界を何度も超える、 激しい登山を経験した。
 1年間で、行動体力と、辛い状況に耐える精神力がパワ−アップした。
 良く山に行きましたと、緑山岳会の新人賞を貰った。

スキ−シ−ズンは八方から栂池にベースを移した、見谷スキースクールへまた通い、少しづつ上達した。
上手くなるにしたがって、上級班になり競技班でポール練習が出来る様になった。
オリンピック選手が履くレベルの、硬くて中途半端に背の高い「LANGE」を買い、当事流行してたブーツ骨折をした。
LANGE
KAZAMAスキ−、

1970年〜1971年 20歳〜21歳

冬は栂池の見谷スキースクールへ通う。初心者から通い始めて3シ−ズン、ポ−ル班の常連になった。
山とスキ−で忙しく、金欠だが滑りたい、宿泊費節約のため、栂池の前山の下にテントを張る。
辛いビバ−ク経験で、 どんな場所でも寝られる体になっていたので、シュラフにもぐれる冬のテント泊は十二分に快適。
スキ−宿のご主人が同情して風呂に入っていいと言ってくれた。

緑山岳会が内紛で分裂、3年生の春からは緑山岳会から分裂したG登攀クラブの活動で毎週山へ行く。
剣、三の窓で5月合宿、谷川岳の岩場へ毎週通い、夏は黒部の壁、正月は穂高屏風岩

1971年〜1972年 21歳〜22歳
4年生の春、奥又白5月合宿で前穂東壁、夏の穂高屏風岩、合宿前黒部の岩場、夏合宿で剣の岩場、合宿帰りに黒部奥鐘西壁
スキーが上手くなりたい!
 上手くなるには滑走量、 卒業単位は取れてるから冬の授業は出ない、時間は十分有るが金は無い。
スキー場でアルバイト、一番滑れるのはパトロール、せっかくやるなら八方、と八方のパトロールに目標を定めた。

どうすれば八方のパトロ−ルになれるか?
八方のパトロールにコネは全く無い、自分がパトロール隊長だったら、どんな人間が欲しいかを良く考えた。
基本的にはある程度滑れなくては役に立たないが、スキーが上手いだけのスキー部や同好会の学生より、
ゲレンデでの怪我、遭難に直結する様な緊急状況に冷静に対応出来る様な、スキルを持つ人間ならぜひ欲しい。
 思案の末、 「日本赤十字社救急員」の資格を取る事にし、講習会、筆記テスト、実技テストを受け、合格した。
八方尾根スキー場のアルバイト募集は、スキ−雑誌に出ていたが、募集要項を読んでみると、
リフト、山荘、レストランの募集は有るのだが、パトロール隊員募集はどこにも書いて無い。
募集とは書いてないが、アルバイトは必ず使っているはずだと、勇気を出し、
パトロール隊長宛てに、履歴書と「日本赤十字社救急員」の資格を取った事、
見谷SSの競技班で練習してる事、 社会人山岳会の会員で冬山と、岩登りの経験をアピールした手紙を書き、
返事を待った。 採用通知の手紙が来るかと首を長くして待っていたが、待てど暮らせど、返事が来ない、
必要条件は満たしてるつもりだったが、やはりダメなのか?と 半分諦めながら、勇気を出して電話をしてみたら、
「おお来いよ」ってあっさり採用された。 \(^^)/作戦大成功、大きな成功体験になった。
作戦大成功のおかげで12月から5月の連休まで給料を貰いながら、怪我人の救急とスキーの練習をした。
初スキーの時、バスの添乗員が「検定は3級2級と上がるのではなく1級を一発で受けると 言ったのを聞いて、
カッコイイ!自分もそうする!と、心に決めていた。 シーズン終わり最後の検定で、1級に合格した。
美津濃フォーミング
ROSSIGNOLストラート200cm

1972年〜1973年 22歳〜23歳

就職をしないまま卒業したので、アルバイトで稼がなければならない。
とりあえず時間が自由になるとの好条件で、山仲間からの紹介で山岳保険の営業を始めた。
救急法の資格を取ったときに知り合った、 <故 中島正一氏> の紹介で、7月8月は日動火災大倉山プールで
監視員のアルバイトをやった。アルバイトが始まってから、驚いた事に水泳救助員の資格を持ってる事になっていて、
更新したら、人事課長に資格証を見せる事になってるからと、中島さんに言われ、区営プールで覚えた我流泳ぎで、
日赤の水泳救助員のハ−ドなプ−ル講習を1週間、最終日に厳しい実技テストを受け、なんとか合格した。
スキ−友達の紹介で9月から神田のスポーツ店でアルバイト、スキーを売ったり、ビンディングの取り付けをやったり。

9月に見谷校長が、東京都スキー連盟所属の、競技スキークラブを発足する、という情報が入り、
設立総会に出席し MAXIMUM SKI TEAM の会員になり、本格的に競技スキー活動を開始した。
学生時代はクライミングに熱を燃やして来たが、競技スキーと言う新たな熱を燃やす世界が開け、
一緒に練習する中間が出来た事で、命がけの危ないクライミングからはフェ−ドアウトして行った。
週2回、千駄ヶ谷のサブトラックに皆で集まり、スキ−のための陸トレを繰り返し、
10月菅平での陸トレ合宿、満を持して一回目の雪上合宿を12月の鹿島槍スキ−場で行なった。
NORDICA Astralslalom
美津濃ブルーインパルス

1973年〜1974年 23歳〜24歳

パトロール2年目だったが、隊長命令で八方から同じ東急資本の栂池スキー場へ移動になった。
1月から東京都スキー連盟の公認レースが始まり、草大会も出来るだけエントリーした。
初めてのレースは上越国際で行なわれた、東京都練習記録会、ドキドキスタートで20位。
初めて出た草大会、NORDICA CUPでまさかの優勝。 運動会の短距離走でも一番になった事が無いのに!
5月の連休まで、栂池でパトロール、6月下旬まで佐伯コ−チ経営の立山フサジ荘で居候。
7月から11月まで、屋内プールが有るので1年中アルバイトの出来る、目黒区営プールで監視員
NORDICA Astralslalom
美津濃ブルーインパルス

1974年〜 24歳

栂池パトロール継続 
草大会が毎週どこかで開かれてるので、仲間内でバッティングしない様にエントリーして、出れば優勝、賞品を稼ぎまくる。
賞品は売って、活動資金に。

6月から11月まで、目黒区営プールで監視員
NORDICA Astralslalom
美津濃ブルーインパルス

1975年 25歳

パトロールは引退、目黒区営プールで監視員、練習と賞品稼ぎの草大会巡り。

レ−スを始めた時には考えてもみなかった、八方リ−ゼンで優勝
NORDICA Astralslalom
FISCHER 210cm

1976年 26歳

東京都の国体予選が猪苗代スキ−場で行われた。
国体に出るイメージが無いままエントリーしたのだが、
210cmのFISCHERで、秒差をつけて1位になり、国体に行く事になった。
ワ−ルドカップで第一シ−ドに入ったばかりの、海和俊宏も国体予選に出てきて、
他の選手達とは、全くレベルの違う滑りで、ぶっちぎりの予選通過
国体本番は急斜面が多いので、210cmは長すぎると考え、200cmのSTコンペで出場
富山県 極楽坂スキ−場 大山国体11位 ...
バイクに乗り始める。
caber
ROSSIGNOL STコンペ 200cm

1977年 27歳

青森県 大鰐国体..17位....
caber
FISCHER 205cm

1979年 29歳

北海道 名寄国体..20位..
このシ−ズンは絶好調で、心がけていたのはタ−ンの終りで足首を入れて、反動を貰い、
次のエッジング位置まで、空中に浮かない様、雪面を舐めながらプロペラジャンプ、
マチガ沢の大会で秒差をつけられた高橋が、上半身をとてもリラックスして滑っていたのに影響を受けた。
春の苗場複合でM君にSLで合計2秒、尾山さんにGSも秒差を付けて総合優勝。
次のシ−ズンから、ブリザ−ドの輸入元だった、丸紅ニチレイから板の提供を受ける事になった。

アルバイト生活をしながら「少資本と少し難しい技術」で独立しようと考えていた、、
フランス土産のカラフルなウインドブレ−カ−から、スキ−の販促用ウインドブレ−カ−を作る事を思いつき、
秋にデュエスポ−ツを創業した。社訓は 「創意工夫」「Practice Makes Perfect」
10年間の山登りやスキ−やバイクの練習で、繰り返し練習すれば、大抵の事は出来る様になる自信が有った。
ウインドブレ−カ−の試作を開始、東レやYKKに行って取引をお願いし、型紙の書き方、ミシンで練習を始めた。
翌年春、ビンディング専業メ−カ−だったサロモンが、スキ−靴の販売開始とともに、日本支社を作る事になり、
谷川岳マチガ沢でサロモンカップを開催すると聞き、売り込みのチャンスとばかりに、大会エントリ−。
SALOMONのプリントを両袖に入れたウインドブレ−カ−を5枚作り、会場に持ち込み社長に売り込んだ。
話はスム−スに進み、サロモンジャパンから20万円分の注文をいただいた。
世の中では、缶コ−ヒ−のBOSSジャンがヒットしていた事も有り、スキ−業界での販促ジャンパ−は評判になり
翌年から販促ウインドブレ−カ−を、スキ−関係各社から請け負う事になって大忙し。
NORDICA GP
DYNASTAR 200cm

1981年 31歳

新潟県 妙高国体...12位....
NORDICA GP
BLIZZARD 205cm

1983年 33歳

群馬県 草津国体..25位....
C組の予選通過はMAXIMUM SKI TEM創立メンバ−3人で締めた。小坂、斉藤、私。
事前合宿に入ったものの、仕事が忙しく、合宿途中の1日東京で仕事、車で往復のはめに。
関越道が前橋までしか無かった時代、夜中に渋川市から吾妻川沿いの道を草津まで。
追い越し禁止の黄色線で、ノロノロ運転の軽トラを、前を走ってたBMWに続いて追い越したら
対向車がなんとパトカ−、止められて怒られたが、国体選手だと分かったら許してくれた。
NORDICA GP
BLIZZARD 205cm....
1985年 35歳

群馬県 岩鞍国体..3位......
このシ−ズンは足首の動きを重視して、スケ−ティングもプロペラも
足首の柔らかい動きで、板のチュンナップは草加のSKIDで。
NORDICA GP
BLIZZARD 205cm....
1987年 37歳

長野県 白馬.国体..20位....
白馬村に向かって首都高経由、中央高速を走って行った。途中雪の降りが酷くなり、
八ヶ岳あたりで、休憩所に引き込まれ、チェ−ンを履くはめに。前輪2本にチェ−ンを
巻いて走り出したら前輪からカチャカチャと異音が発生、しばらくしたらブレ−キペダルを踏んでもスカスカに、
チェ−ンでブレ−キオイルのパイプを切ってしまった様だ。どうしようか考えたが、塩尻手前で高速を下り、
下道をサイドブレ−キのみで、やっと白馬までたどり着いた。 翌朝、白馬農協でパイプ交換して貰って、一件落着。
SANMARCO TR2
BLIZZARD 205cm

1989年 39歳

北海道 旭川.国体..12位....
SANMARCO TR2
ATOMIC HV6 203cm

1991年 41歳

新潟県 魚沼.国体..20位....
SANMARCO TR2
ELAN 205cm

1992年 42歳
山形県 蔵王.国体..20位....
NORDICA GP
ELAN 205cm
気温が上がり、雨天のレース。
このコ−ス、中間の緩斜面に、常に強い風が吹き上げてる場所が有って、そこを通過する時、
クローチングを、思い切り小さく組むのが、このコースを攻略するセオリーなのだと、
終わってからから聞いた。 初めから言って欲しかったな(;;)
ゴールしたら、コース脇で見ていた、他県の選手から、
私のクロ−チングが一番大きかったと誉められた(^^; で、成績もそれなり。
1993年 43歳
鳥取県 大山.国体..30位....
NORDICA GP
DYNASTAR 205cm........
石内スキ−場でポ−ル練習をしていたが、スキ−場の方針でポ−ルを張れなくなり
小海リエックスのスク−ルに入り、基礎練習をイタリアンメソッドで練習をした。
国体予選を通り、飛行機で鳥取空港から大山スキ−場へ、帰りは新幹線
国体本番は、新品のDYNASTARの滑走面の手入れ不足で滑走性悪く、ひどいタイム。

1994年 44歳

宮城県 鳴子.国体..転倒......
NORDICA GP
FISCHER 205cm.....
この年のFISCHERは工場出荷状態が良く、チュンナップ屋に出したら滑らなくなった。
新品をもう一本、湯沢のクレブから送って貰い、予選は秒差。
振り返って見れば、これが最後の国体出場、通算13回出られた。
翌年から、予選のタイムが毎年1秒ずつ遅くなって、通過出来ず。

1997年 47歳

3月、上越3連戦の滑降
NORDICA GP
FISCHER 205cm.....
1998年 48歳  
NORDICA GP
STOKLI 198cm.....
正月に菅平で初滑り、準備体操もしないで、いきなりアイスバ−ンで強いエッジングをしたら、
魔女の一撃を食らった。クロ−チングを組んだままレストハウスへ直行。宿に戻り3日間動けず。
夏のコンディショントレ−ニングがあまり出来なかったツケが来た。

1999年 49歳  
昨年の正月に引き続き腰痛になる。
毎晩5km のウオ−キングを夏の間をやってたのに、また腰を痛めてしまって
腰痛ベルトの離せない体になってしまった。
LANGE
ATOMIC BETA RACE 10.26 193cm

2000年 50歳

 1月、東京都国体予選、再開した極真空手の修行のおかげで、元気な体になり、腰痛ベルトが要らなくなった。
湯の丸大回転、丸沼大回転の2大会で優勝、3年ぶりの優勝は小さい大会でも嬉しい。
初めて丸沼スキ−場に行ったのだが、翌年から丸沼レ−シングのキャンプに入れてもらって
ポ−ル練習が出来る様になった。
ATOMIC BOOTS
ROSSIGNOL Bandit 160cm

2001年 51歳

1月、東京都国体予選、時々ずれてしまう。 練習不足?道具のせい?筋力の衰えか?
昨年に続き丸沼大回転で優勝、丸沼スキ−場のシ−ズン券をゲット、来年も丸沼通い決定。
NORDICA GP80
DYNASTAR 186cm

2005年 55歳  

3月、丸沼大回転 丸沼スキ−場のシ−ズン券狙いの大会
NORDICA Dobermann
ELAN 183cm...

2007年 57歳

1月、南関東ブロックマスターズ大回転2連戦 初日2位 2日目1位

3月、丸沼大回転の前日練習で転んで、後ろ向きに林に飛び込み、左足腓骨2ヶ所骨折、激痛。
NORDICA Dobermann
FISCHER 188cmR27
2010年 60歳

3月、丸沼大回転、MSさんに0.06差で負け、悔しい。
近所の人から、滑りのヒントを貰い、上体の前傾、抱え込み蹴り出しの滑りを練習した。
NORDICA Dobermann
FISCHER 188cmR27

2012年 62歳  

昨年は東日本大震災で中止になった。 今年も気合を入れたがタイムが伸びず負け。
NORDICA Dobermann
FISCHER 188cmR27

2013年 63歳

  今年は、ちゃんと滑れて勝ち \(^^)/
  2月から「SKI LABORATORY ITALY」にTuneを依頼。
流石に職人気質のプロ、ほぼお願いした様に仕上げてくれる。
NORDICA Dobermann
FISCHER 188cmR27
SKI LABORATORY ITALY Tune

2014年 64歳

  今年は、負け、ついでに順位も落ちてしまった。
NORDICA Dobermann EDT 130
FISCHER 188cmR27
SKI LABORATORY ITALY Tune

2015年 65歳

  今年は、1分12秒のロングコース、ゴール前で足に来てロスタイムで負け。
NORDICA Dobermann EDT 120
FISCHER 188cmR27
SKI LABORATORY ITALY Tune

2016年 66歳

   40年ぶりの八方リーゼン。
今年は、雪不足で丸沼大回転は中止、相談の結果、
勝負の場を私のスキーの故郷八方へ。 
毎年の大会スタ−トリストの過去記録に、40年前の私の名前が相馬芳彦と出ている。
出場に当たって、昔の新聞の切り抜きを沿え、変える様にお願いした。
試合の分解写真を見て、前走のオルトリ−プ達の谷回りが、
進行方向正対、フォ−ルラインリバ−スで、山回りを膝の前屈で山回り。
私は谷回りで胸をフォ−ルライン、回るけどズレる。
これに気がついて、フォ−ム矯正の必要を感じた。
NORDICA Dobermann WC150 14-15モデル BMZ Tune
FISCHER 195cmR35 
SKI LABORATORY ITALY Tune
サイド89度 滑走面フラット

2018年 68歳

  今年は、36秒の短距離コース。八方での教訓フォ−ム矯正の成果とスタートダッシュが上手く行って勝てました。
0.1秒単位で4人も並んでびっくり。 ひとずれで順位が変わる激戦。
年金生活者達は練習時間があるので、毎年皆上手くなってる。
  NORDICA Dobermann WC150 14-15モデル BMZ Tune
ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23
SKI LABORATORY ITALY Tuneサイド89度 滑走面フラット
[ROSSIGNOL HERO MASTER] をみんな履いてタイムを出してるので、
昨年のシーズン終わりに、カンダハーで、だまされたと思って買い、履いてみて驚いた。
SL板の様にフルカービングで滑れる。Kにフラットに削ってもらいより良い板になってきた。

2019年 69歳

  今年は、上からスタート。インターバルの短いセット、急斜面で深いターンが要求された。
2007年の左足骨折以来、左谷足がズレ落ちてタイムが全く出なくなっていた。
  岡澤のおかげで、左足のカントが合ってバッチリ!
落とされる量が少なく滑れて勝てました。0.3秒差の勝利。年金生活者達の激戦区。
  NORDICA Dobermann WC150 14-15モデル BMZ Tune
ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23
SKI LABORATORY ITALY Tune サイド89度 滑走面フラット

2020年 70歳

  今年は雪不足だったが、なんとか上からスタート。浅回りでスピードを出し深回りで減速させるセンス良いセット。
3年同じ板、試合専用の「18 ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23」フラットに、靴は昨年完璧なのでどこもいじらず!
LOOK SPX15 のコバ押さえ部分はプラスチックで出来ていて、脱着の時コバに付けた金具と衝突して割れているのを発見
LOOK PX18のビンディングは金属なので、交換した。脱着音もSPX15のガチャって壊れそうな音と違って、ヌルっと入って感じが良い。
インラインの練習、アイソメトリック、ローイングマシン、ワイパーのコンディショントレーニングが上手くかみ合い、速くなった。
  NORDICA Dobermann WC150 14-15モデル BMZ Tune
ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23
SKI LABORATORY ITALY Tune サイド88度 滑走面フラット

2021年 71歳

昨年の失敗は、右外足の山回りで尻が回り板がズレる昔からの癖、左外足のあやふやな捉え始め。
インラインでリバースを意識したターンを、篠崎坂、二子玉坂、江戸川ローラーコートで練習した。
スイズルで腰の高さが低くなり、スライドボードで足の裏と股関節から押し出す感じが、左外足のあやふやな捉え始めを改善、
股関節の左右の違いが分かったが、まだ開発中って感じ、

脊柱間狭窄症で足腰のしびれが発生、歩くのは大変だがスケートは前傾するせいか大丈夫なのでインラインの練習に重点を置いた。
12月に連夜、ローラーコートに通って、左外足のターン練習を一生懸命やってたら、左脇腹に少し違和感が発生。
12月丸沼で、初ポール練習で左脇腹に痛みが発生、2回目のポール練習で本格的に痛くなった。
1月の片品マスターズの前日、フリーポールに入ったら激痛が発生したのでDS、 1月の丸沼スキー学校杯もDS。
2月の片品マスターズは1本目ラップだが2本目は痛くて、とても滑れないのでDS、非売品の片品シーズン券を逃した。
3月の丸沼は1本なので、これにかけた。 フリーで滑っても大丈夫だが、ポールに入ると負荷が大きくなるので、ポール練習無しで本番を迎えた。
昨年の反省、右外足のローテーション癖はやや改善したが、本番ではどうしても出てしまう。結果オーライだが、まだ修行が足らない。
H君が靴底5mm上げると良いと言うので、BMZ岡澤に頼み、上げ底にして12月に滑ったがイマイチピンと来なかった。
NORDICA Dobermann WC150 5mm上げ底 BMZ Tune

NORDICA Dobermann WC150 14-15モデル BMZ Tune
ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23
SKI LABORATORY ITALY Tune サイド88度 滑走面フラット

2022年 72歳

22シ−ズンは戸倉段落ち、片品2連勝、丸沼板が回らない、で終了。

スキー靴が硬いのは、足首を前に入れるのでは無く、スノーボーダーの様に、
フォ−ルラインで板を横に押して、撓んだ板に乗っていくのが基本ってのにやっと思い至った。今期最大の間違い。
オフトレは坂でのインライン、スイズル、スライドボードどれも進化した。
スライドボ−ドは横のストロークバランスを養える。初めは、ただ横に移動していたが、
山回りの板と体の位置関係を考え、腰を外に向けて蹴る様にしたら、
脇腹にアンギュレーションの負荷が集中せず、脇腹痛が持病にならないで済んだ。
蹴る時にフルパワ−が出せないのが悩みだったが、いろいろ考えて、
ゴムのセットを工夫して、2段構えにしたら上手くいった。

靴は5mm上げ底を、シーズンインから違和感を感じるが、履きならすと覚悟した。今期最大の間違い。
HERO MASTERで、戸倉マスターズの急斜面を6段落ちして、短いエッジングが出来ないと、 もっと速くなれないと感じ、
丸沼4連勝したHERO MASTERは置いておいて、 DORBELMAN 188cmR25をチュ−ンして貰い、 片品マスターズ前日練習に乗ってみた。

板をコントロ−ル出来てる感じはしなかったが、ビデオではちゃんと滑ってる様に見えた。
板は低速ではサイドカ−ブで回るが、スピードが出て、慣性と遠心力が働くと、撓んで小さな弧を描く。
DORBELMANはポールに入ったら撓んで小さな弧を描き斜滑降への抜けが素晴らしい、HEROはいつまでも食いついて、長いエッジングになる。

低速でのフリー滑走の扱いずらさを感じて、左靴のカントを少し戻し、トウピースを1cm前にずらして片品には出たが、真ん中の斜面でズレっぽく、
Bクラスの人達には負けた。本来の位置にして重心移動瞬発力の練習しないとタイムは出ない。
だんだん板が食いついてスム−スに回せなくなり、カントを緩めたり、プレ−トの取り付け穴を開けたりジタバタしてるうちに、丸沼大回転の日になってしまった。
いつもより、細かい深い回転弧を要求するセットがスタ−トから8タ−ン位、 左脚が横に出せないまま、酷い滑りで大失敗だった。
翌週、上げ底してない靴で2級を受験したら、板は引っかかる事無く良く回る。 上げ底が戸倉や丸沼の今シーズンの失敗の原因だった。
板をDORBELMAN 188cmR25からHERO MASTERに履き替えたら、初めて履いたSL板の様に良く回る感激を感じた。
2本を使い分けて乗るのが練習としては良いと思う。
インラインは坂ばかりで滑ってると、パワ−発揮のタイミングが分からなくなって、 脇腹を痛めない程度にローラーコートに行く必要が有る。
3月の終りに坂に行ってみたら、ローラーコートのビデオを見ただけで、パワ−発揮のタイミングが身についている。
NORDICA Dobermann WC150 5mm上げ底 BMZ Tune
NORDICA Dobermann WC150 BMZ Tune
ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23
Dobermann WC188Cm R25
SKI LABORATORY ITALY Tune サイド88度 滑走面フラット


2023年 73歳

昨年の上げ底の反省から、上げ底してないのを作った。
上げ底に慣れて、内傾しなくても切れたので、内傾角を強くする練習が足らなくなっていた。

板はロシマスタ−ズと思ってたが、途中でド−ベルマン188R25を履いたり、183R23を買ったり
ヘッドを買って、チュンナップしてなかったり、迷走のシ−ズン
学校杯は雪だまりに3回つっこんでタイムロス、酷いタイム。
片品は同じ相手に2連勝、1月はロシで0.1負け0.5勝ち、2月はDoebelmanで2本とも0.1勝った。

シ−ズン終りには右足の巾が痛くなったり、母の入院、施設入居が有ったり。
丸沼大回転は前日練習か、オ−バ−ワ−ク気味で、転倒した。
NORDICA Dobermann WC150 BMZ Tune
ROSSIGNOL HERO MASTER 185cmR23
Dobermann WC188Cm R25
Dobermann WC183Cm R23
SKI LABORATORY ITALY Tune サイド88度 滑走面フラット


2024年 74歳
23年12月22日、丸沼ロ−ズコ−ス廊下でネットに突っ込み、右脛骨、高原骨折
パトにボ−トで運ばれ、丸沼のみんなに助けられ、パト室から石川さんが江戸川病院まで搬送してくれた。
レントゲン撮影の結果、全身麻酔で手術を25日に、松葉杖で歩けるので29日に退院した。
松葉杖生活で2月5日まで0%2月6日から25%2月20日から50%
3月5日から75%3月19日100%と2週間ごとに負荷を増やしていった。
細くなった右脚を太く戻すのが大変、焦る気持ちは失敗の元
ネットに突っ込んだ時、両手を前に出して、突っ込んだので、両肩が半脱臼した様で
肩が上がらない、両腕を大きく振る動的ストレッチ15分を毎日。

シ−ズンイン2日目、SL板からGS板に履き替えたが、エッジがキンキンでずらせなかった。
プル−クファ−レンから始めるべきなのに、スケ−トでカ−ビング癖が付いて、スキ−の基本を忘れていたのが敗因。